Domingo編集部
目次
1. 新人のころは、デジタルの知識が皆無だった。
2. 研究したい自分を受け入れてくれた、地元の大学。
3. 予期せぬ災害が、進むべき方向性を見せてくれた。
4. 消えゆく街の記憶をどこかに残したい。
5. 街の記憶は、写真でも記録。
6. 田舎でもいい感じに働けるし、楽しく暮らせる。
新人のころは、デジタルの知識が皆無だった。
生まれも育ちも森町。山形さんは1998年に高校を卒業し、森町役場に就職しました。最初に町営住宅を担当する部署に配属され、5年後、情報担当に移動したといいます。
「僕が就職したころは役場内にワープロが1台しかないような時代で、稟議書も手書きでした。それが2000年ごろから『ひとり一台のパソコンを』という声が自治体で上がり始め、国の主導でIT化が進められたんです」
最初の仕事は、庁舎内にLANケーブルを引くこと。それ以外にもパソコンを設定したり、サーバーを作ったり、ネットワークの設計をしたりと、デジタル周りのことを一手に引き受けていました。「情報系の学校を出ているわけでもないので詳しくもなく、役場のなかで一番若かった僕が任されたという感じです」と山形さんは笑います。
「技術的なことに関してはインフラを作るベンダーさんのサポートを受けていたのですが、みんないい人で、わからないことがあると丁寧に教えてくれたんですね。『うちの会社に頼むとお金がかかるから、これは自分でやった方がいい。やり方を教えてあげるよ』ということもしばしば。そんなインターネットの良心に支えられて、知識をどんどん吸収していきました」
最初の5年は設備を整えることに尽力。とにかく、なんとか作って動かすという作業に追われる日々でした。やっと形になったと思ったら、機器の更新のタイミングが訪れ…というサイクルで、常にフル稼働していたのだそうです。
研究したい自分を受け入れてくれた、地元の大学。
そんななか、常に議題に上がっていたのがコスト削減問題です。
「すべてベンダーさんにお願いしていると、やはりコストは高くなりがちです。それを解消するために新しい技術を使いたいと思っていたのですが、役場では経費が捻出できない。最初は自腹で研究していましたが、自分の技術力が上がるにつれて規模が大きくなってくるわけです。数百万円を使ってテストしたいと思うこともありましたが、さすがに厳しかった」
そんなとき「地域に大学がある意味って、なんだと思う?」と声をかけてくれたのが、当時の上司。「地域の困りごとや課題を解決するために何か新しいことをやっていきたいのだったら、大学に相談してみると一緒に研究してくれるかもしれないよ」とアドバイスをくれました。
「そうか、大学ってそういうところなんだ、と思って、mixiで『公立はこだて未来大学』と検索して出てきた、大場みち子教授に突撃で連絡してみたんです。すると、とても面白がってくれて『すぐに遊びにおいで』と言ってくださったんですね」
予期せぬ災害が、進むべき方向性を見せてくれた。
公立はこだて未来大学は、システム情報科学部の1学部からなる単科大学。役場の職員が「研究したい」と飛び込んできたときは、先生も驚いたかもしれません。それでも山形さんの熱心な姿勢を見て、共同研究に力を入れてくれました。
そんなときに発生したのが、東日本大震災です。東北から近い道南の森町も被災し、町民が集まった避難所のすぐ近くまで津波が来るなど、各地でさまざまな被害が聞かれました。
「連絡を取るべく電話を使おうとしても、なかなか繋がらない。でもインターネット通信は使えて、改めて災害時での強さを再認識したんですね。同時に、外国人の住民が本国と連絡を取りたいというときに、役場のネットワークについて僕以外に知っている人がいないなどの問題もありました。それで、これは誰もが継続的に動かせる環境にしないといけない、という思いが大きくなっていったんです」
この出来事をきっかけに、大学との共同研究で、オープンデータ(誰でも二次使用が可能なルールで公開されたデータ)などに関する研究を始めました。2012年には、自治体におけるパブリッククラウド(インターネット経由でサーバーやソフトなどをユーザーが共有して使えるサービス)の本格運用を開始しています。
「オープンデータの概念は、大場先生に教わったんです。我々役場の人間が作ったデータは公共財であり、それをすべての人たちが使えないといけないよね、という“オープン・バイ・デフォルト”という考え方です。先生も、とても面白い研究だと言ってくださいました」
消えゆく街の記憶をどこかに残したい。
そして今度は、プライベートでも変化が起きます。
「ばあちゃんが、認知症を患ってしまったんです。僕はばあちゃんっ子だったので、施設に入れることに対する葛藤があったり、ばあちゃんとまともに会話できない寂しさを抱えたりしていました」
日々薄れていく、祖母の記憶。その姿を目の当たりにした山形さんは「ばあちゃんの情報を残せないか」と考えるようになりました。未来大学との共同研究の中で知り合ったオープンデータに造詣が深い友人にそんな話をすると「新しい情報だけでなく、古い情報をアーカイブしていくこともデータベースになり得る」「古いデータを残すための活動もあるんだよ」などと教えてくれたそうです。
「最初はばあちゃんが見てきた街を残したい、という私的な理由だったんですけど、実は森町のことが好きで、地域の歴史を残していきたい人もいるんじゃないかな、と思うようになって。森町のウィキペディアを見ると、当時はたった9項目しか情報が残されていなかったんです。でも、僕がばあちゃんから聞いた話はもっといっぱいある。じゃあ残そう、と思って立ち上げたのが、ハウモリという団体です」
2015年には、ハウモリ主催の『第1回ウィキペディアタウン森町』を開催し、10名の参加者と一緒に図書館で森町の歴史を調べながら、ウィキペディアに情報を書き足していきました。この活動で、9項目しかなかった森町の情報が一気に充実。ウィキペディアを開くだけで、森町のことを知らない人も大枠を理解することができるほどになりました。
街の記憶は、写真でも記録。
その後はオープンデータの勉強会やイベントなども開催しながら、森町にまつわる古写真を集めて現在の風景と合わせながら写真を撮っていく『記憶の記録』プロジェクトも開始。
「これはある種、僕の趣味のような形で続けていたのですが、立正大学の友人が『一緒に何かできないか』と言ってくれたんです。それで学生さんを北海道まで連れて来てくれて、古い写真がどの場所の写真なのかを特定する作業と、実際に現在の写真を撮りに行く作業を手伝ってくれました」
この活動は3年ほど続き、毎年学生が森町に訪れてくれたそうです。なかには「自分の出身地でも同じプロジェクトを立ち上げたい」と積極的に動いたり、大学の文化祭で古写真や地図を企画展示したりする学生もいて、『記憶の記録』は森町を超えて少しずつ広がりを見せていきました。
アナログだった地域が、インターネットの力を借りて少しずつ色づいていく様を見てきた山形さん。2021年末に役場を退職し、森町だけでなく近隣の生活圏まで巻き込んで、より豊かな暮らしを作っていくための活動を始めています。
田舎でもいい感じに働けるし、楽しく暮らせる。
現在は一般社団法人コード・フォー・ジャパンに所属し、Govtechチームの一員として日本全国の行政のデジタル化に関する研究や支援を中心にしながら、北海道内の自治体の情報技術活用に関するコミュニティ活動などを行っている山形さん。オープンデータに造詣が深い有識者として、自治体主催のセミナーなどに派遣される『内閣官房IT総合戦略室 オープンデータ伝道師』としても活躍しています。
現在は拠点となる場所を作るべく、中古物件を改装中です。大きな夢や野望を叶えるためというよりは、目の前にある面白いことをやってみる。ちょっと飽きたら辞めてみる。そんなスタンスの山形さんは、地域のみなさんの目にどう映っているのでしょうか。
「毎朝イヤホンマイクを付けて音声SNSアプリで会話をしながら通勤する、というコンテンツを1年くらいやっているんです。役場を退職したいまも続けているのですが『大男が朝、ひとりでニヤニヤしながら町中を歩いてる』と噂になっているそうで…(笑)。たしかにちょっと異様ですよね。『あの人、何をして暮らしているんだろう?』『なんだかITですごいことやってるらしいよ』と言われているらしいのですが…」
陰でコソコソ予想されるのは落ち着きませんが、山形さん曰く「もっと噂になればいい」。なぜなら地方の田舎町で仕事をする場合、家業を継ぐ、公務員になる、スーパーマーケットで働く…など、働き口が限られるイメージがまだ根強いから、だそう。
「仕事ってもっとたくさんあるんだよ、田舎でもいい感じに働けるよ、ということを“なんの仕事をしているのかよくわからない大人”の姿から、若い人が感じ取ってくれたらいいなって思うんです」
近年よく聞かれるようになったリモートワークや二拠点生活も、インターネットという大きな力があるからこそ実現できていることは言うまでもありません。新しい働き方をする若者が森町からも出てくれたら、町はもっと面白くなる。働き方だけでなく、生活そのものも「田舎だから無理」という感覚は少しずつ、薄れてきているかもしれません。
山形さんは今日も座右の銘である「まあすわりなよ」を各所で実践し、デジタルがもたらす一筋の光を、小さな町に灯し続けています。
山形 巧哉さん
北海道、函館近郊に位置する森町という小さな町で「デジタルとなにか」を実践している。行政や教育現場でのデジタル技術活用や構築に関する実務経験を数多く持ち、比較的小規模な市町村でのデジタル利用について一緒に考え、創り上げていくことを得意としている。座右の銘は「まあすわりなよ」
内閣官房IT総合戦略室オープンデータ伝道師・総務省地域情報化アドバイザー
▼Domingoで「山形 巧哉さん」の詳細を見る
山形 巧哉
ライタープロフィール
仲野聡子
生まれも育ちも日本一人口の少ない鳥取県。高校卒業後に上京し、東京に20年ほど住んだのち、2017年8月に喜茂別町に家族と移住しました。羊蹄山麓の澄んだ空気や豪雪を楽しみ、日々人の温かさに触れています。